5月の禅語御朱印直書き会
5月の禅語御朱印直書き会のご案内です。参加は予約不要です。
5月の開催は、
5月1日(水)10:00~12:00
5月15日(水)10:00~12:00→11:00~13:00(変更)→中止
※日程が合わず来院できない月があった方は、もしご希望であれば月を遡って抜けた月の分の禅語も書かせていただきます。いらした際にお声がけください。
5月のテーマは本来無一物(ほんらいむいちもつ)です。
禅宗の始祖は達磨大師(だるまさん)と言われています。
仏教は釈迦に始まり、師匠から弟子に「法を継ぐ」ことで、代々教えをつないできました。
ちなみに達磨さんは釈迦から数えて28代目とされています。
そして、達磨さんが中国に渡ったことで禅宗がおこり、達磨さんから弟子に、またその弟子にと、脈々と法が継がれて現在の日本の禅に至るわけです。
達磨さんから数えて5代目に法を継いだ禅僧が、ある時、6代目に法を継ぐべき者を選ぶため、門下の弟子たちに悟りの境涯(きょうがい:心の状態)を詩にして表すように言ったそうです。たくさんの門下生たちのなかで、一番弟子と目されていたある門下生は、次のような詩を示しました。
ーーー
身はこれ菩提樹 (意訳:身体は悟りの花を咲かせるボダイジュ)
心は明鏡台のごとし (心は澄んだ鏡の台のよう)
時時に勤めて払拭して (いつもきれいに磨き上げ)
塵埃をけがさしむることなかれ (チリやホコリを着かせまい)
ーーー
塵や埃が、清浄無垢な心の本性にかからないよう、日々努力することを促す結構な詩です。
しかし、その詩を見た別の門下生が別の詩を書きました。未だ出家した修行僧として認められておらず、米つきの雑務をしていた門下生でした。
ーーー
菩提は本より樹無し(悟りはそもそも樹や花のように実体のあるものでない)
明鏡もまた台に非ず(心もまた鏡台のように実体のあるものではない)
本来無一物(もともと執着すべきものなど一つも無い)
いずれの処にか塵埃有らん(塵や埃など、どこに着くことがあろうか)
ーーー
本来無一物。そもそも執着すべき実体など何も無いではないか、というのです。
結果、5代目の禅僧は自分の衣を米つきの雑務をしていた門下生に渡し、6代目としたのでした。
禅の考え方が世界をどう捉えているのかを示す、とても象徴的なエピソードです。
両足院徒弟
品部東晟