12月の禅語御朱印の直書き会
仏教の開祖である釈迦(しゃか)が悟った瞬間を表した禅語です。
釈迦が悟ったのは12月8日とされています。12月1日から菩提樹(ぼだいじゅ)の下で静かに坐り瞑想をはじめた釈迦は、8日目の夜明け、空に輝く星を見たその瞬間に悟りを得たと伝わっています。この逸話を表すのが「明星を見て道を悟る」という禅語です。
おそよ2500年前、ヒマラヤ山脈のふもとにあった釈迦国の王子として生まれた釈迦は、あらゆるものが満たされ不自由なく暮らしていましたが、生老病死という逃れようのない人間の苦しみを知り、救い求めて出家し修行を始めました。
当時一般的な修行法とされていた苦行(自らに苦しみを課す修行法)を徹底的に行いましたが、苦行は解決への道でないことを理解し、穏やかに坐り自分の心身を深く観察する瞑想に至りました。これが坐禅の始まりとされています。
さて、星を見た釈迦にいったい何が起こったのでしょう。星を見て何を思ったのでしょう。
夜明けの星を見るという経験は、晴れていれば誰にでもできる経験ですが、この時釈迦はこの当たり前の経験から、世界と自分を理解し、あらゆる執着から離れた状態になったのでしょうか。
振り返ってみると私は、人と違った特別な体験を、死ぬまでになるべく多く経験することを求めていたように思います。それが人生を豊かにすることだと、自分を特別な存在にすることだと、疑いもせずに思っていました。
穏やかにじっと坐って自分と身の回りをたっぷり観察(坐禅)し、そして今思うのは、大切にすべきは経験の量や特殊性ではなく、自分がその経験をどう解釈できるか、その経験から何を吸収できるかという、いわば「経験の解像度」ではないかということです。
例えば、どう足掻いても人間は宇宙の一部ですから、人間を知るということは宇宙の一部を知ることといえるでしょう。つまり、自分を知ることは世界を知ることだし、世界を知ることは自分を知ることと同じだと思うのです。ということは、いつも目の前で今起きているささいで当たり前の出来ごとは、宇宙の全てを表現しているはずだと思うのです。
問題は、その当たり前の出来事から全てを読み取る解像度を、自分が備えているかどうか。
釈迦は明星からなにを受け取ったのでしょう。
自分は明星からなにを受け取ることができるのでしょう。
両足院徒弟 品部東晟