9月の禅語御朱印直書き会
9月の開催は、
9月1日(日)→台風のため中止
9月15日(日)11:00~13:00
※日程が合わず来院できない月があった方は、もしご希望であれば月を遡って抜けた月の分の禅語も書かせていただきます。いらした際にお声がけください。
9月のテーマは、看花老不知(はなをみるもの おいをしらず)
美しい花を愛する人は、いつまでも老いることを知らない。という意味の禅語です。
ところで、そもそも「老いる」とはどういうことでしょうか。
普段私たちは「老いる」という言葉をどんな時に使っているでしょうか。
私の場合は、単純に年月を経ることや、身体の機能が衰えていくこと、あるいはそういう変化にともなって精神的にリスクを避けがちになることなどについて、「老いる」と表現していることが多いように思います。皆さんはいかがでしょうか。
一般的に「老いる」という言葉から、時間の経過に伴う身体的・精神的な少しネガティブな変化をイメージすることが多いのではないでしょうか。
では、この禅語はなぜ「花を看る人は老いない」と言っているのでしょうか。
どうやら、この禅語の言う「老い」とは、「時間の経過やそれに伴う身体的精神的な変化」のことではなさそうです。
私は、この禅語のいう「老い」を、「感動する心が失われること」と考えるとわかりやすいと思っています。感動とは、深く感じて心が動くこと。つまり、この禅語の指す老いとは「自分の心の感度」の劣化を「老い」と表現していると考えられます。
さて、これを禅的に考えてみると、花を見て美しいなぁと心が動くのは、あなたが花を見るまさにその瞬間に、精一杯咲いてる花の命に自分の命が共鳴するからと言えそうです。
感動する。つまり深く感じて心が動くのは、花という対象を単に対象物として眺めるのではなく、無意識に対象と自分とが一つになって共鳴しているということなのでしょう。
私は、死ぬまで感動し続けたいと思っています。
ポジティブな感動も、ネガティブな感動も、ともに味わい続けたいと思っています。
心が動くことこそ、生きる楽しみであり醍醐味であると感じています。
時間の経過や身体的精神的衰えに左右されず、「心の感度」を楽しむコツは、好奇心を全開にしたまるで赤子の視点で世界と自分を観察することだと私は思っています。
この禅語は、時間と共に無意識で自分の心に堆積してしまう「常識」や「偏見」や「善悪の判断」などを流し去り、まっさらな目線で見てみることこそが、「心の感度」を曇らせず、つまり「老い」ることなく世界を味わうことだと、教えてくれているのだと、私は考えています。
2024年9月 長月
両足院徒弟
品部東晟