3月の禅語御朱印直書き会
3月の禅語御朱印直書き会のご案内です。参加は予約不要です。
3月の開催は、
3月1日(金)10:00~12:00
3月15日(金)10:00~12:00
※日程が合わず来院できない月があった方は、もしご希望であれば月を遡って抜けた月の分の禅語も書かせていただきます。いらした際にお声がけください。
3月のテーマは、春来草自生(はるきたって くさおのずからしょうず)です。
「兀然(こつねん)として無事に坐すれば、春来たって草自ずから生ず」という禅語の一節。
すべての計らいを捨てただ黙々と坐禅をしていれば、春になって草が自然と生えるように、時がくれば必ず悟ることができるだろう。という意味と解釈されています。
春が来れば、草木は芽を出します。それを人がさまざまに理屈で解釈しようとも、それが現実、それが自然です。しかるべき時に、しかるべきことが起こります。同じように、黙々と坐禅をしていれば、しかるべき時に、必ず道はひらける。それが現実で、それが自然だ、ということを表現しているのでしょう。
これを日常生活の視点でみてみると、「自分の人生が思うように開けないと感じていても、機が熟すときが必ず来るので、日々精進し続けることが大切だ」と励まされる気がします。
ところで、草花の春の芽吹きは象徴的で、物事の始まりを連想させる明るい出来事です。対照的に、冬の間は寒さを耐え忍び、春が来るのをじっと待っているようなイメージがあります。しかし私は、「冬を耐え春を待っている」という草花のイメージは、私たちヒトにとって「そう見えるだけ」と思っています。
冬の間、多くの植物の目立つ部分である花や葉は枯れ落ちて、ヒトからみるとまるで止まっている、あるいは「枯れる=死」すら連想させます。しかし、植物をよく観察してみると、秋に葉を落とした時には、もう次の芽がしっかり準備されていたり、あるいは種となって、冬の間もヒトの目には見えないところでぐんぐん変化していたりします。
ヒトの目には機を待っているように見えても、植物はいつでも現在進行形で変化し続けているのです。待っている時など一瞬たりともないと思うのです。
私は、坐禅についても同じことを思います。
「悟り=春の芽生え」を目指して「黙々と坐る=冬を耐える」のではなく、いつであろうと坐っているその瞬間が全てだということ。
変えようのない過去への後悔や、おきてもいない未来への恐怖など、自分の頭の中だけの話で、今目の前で起きていることが、100%現実なわけです。自分の思い込みを自分で剥がし、現実を知るための技術。それが坐禅だと思っています。
常に機は熟しているし、いつでも「その時」はきているのです。
2024年3月 弥生
両足院徒弟
品部東晟