7月の禅語御朱印直書き会
7月のテーマは、山中無暦日(さんちゅう れきじつなし)
〜たまたま松樹の下に来たり 枕を高くして石頭に眠る
山中暦日無し 寒尽くるも年を知らず〜
ある時、人に名前を問われた隠者(世捨て人)は、この詩を残して去ったといいます。
隠者は、「たまたまこの静かな山中の松の樹の下に住むようになりました。夜は大石の上でぐっすり眠ります。思えばこの山中に入って幾年になるだろうか。今年もまた寒がつき、春めいて来たようだが、今年が何年だか一向にわからない」というのです。山の中の生活は歴(こよみ)も無用。月日の移ることにも頓着せず、悠々自適に山居を楽しんでいる様子を表しているといわれています。
ところで私は、気づいた時には人生が始まっていました。そして1日24時間、1年365日ということを、当たり前に日々過ごしています。過去、現在、未来という、不可逆なとめどない流れのようなものとして、時間というものが存在していることについて、私は疑うことがありません。
しかし、この禅語にふれると、時間は人間が作った概念であるということを思い出します。そして、当たり前に日々時間に追われ、他人の作った歴に縛られて生きている現状をかえりみます。
たまには人の気配のない場所で、静かに坐禅してみるといいでしょう。まるでそこに昔からあった岩にでもなったかのように、坐ってその場の空気に身を委ねてみてください。
自然の中では、私たち人間のペースと全く関係のないところで、あらゆる生き物の生き死にが繰り返されています。私たちの時間や歴という概念など関係なく、それぞれのペースで世界は流れていることを実感するでしょう。アリはアリのペースで。猫は猫のペースで。カラスはカラスのペースで。花は花の、雲は雲の、星は星のペースで。
すると、気づくことがあります。時間という概念で自らの自由を縛っているのは、他でもない私自身の思い込みだということ。そして、私は果てしなく自由だという現実です。
私は人間の群れの中に身を置き、人間の群れのペースで生きているわけですが、なにもそのペースに、盲目的に身を委ねなければいけない訳ではないでしょう。ただ、私が気づいた時には既にそうだったから、無自覚にそうし続けていただけです。
気づいたのであれば、自覚したのであれば、その思い込みから離れることも可能だということです。
何も社会から離脱する必要はありません。
私の視点が変われば、世界は変わるのです。
両足院徒弟
品部東晟