5月の禅語御朱印直書き会
心を鎮め静かに坐って悠然と山河を眺めている様子。大自然に向かってゆったりと閑坐している自己と、目の前に広がる山河大地が一体となった境地を表す禅語と言われています。
さて、わたしは坐禅をするとき、まるで自分が石にでもなったかのようにただそこに在り、今いるその場所の空気に身を委ねてみたりすることがあります。
木々のざわめきや鳥たちの声。どこからか吹いてきてどこかに去っていく風。その風に乗っているのか翻弄されているのか、舞い飛ぶ虫たち。そんな地上のざわめきとは無関係かのようにゆったりと遠くに在る雲。そして、それら全てをつつむ日の光。
そんな当たり前で美しい景色を、ただ目だけを使って画像として見るというのでなく、自分が持っている全ての感覚を、その場、その空気に委ね切ってしまったようなつもりで、味わうのです。
そうすると分かるのが、わたしの視点で物事を捉え考えているのはわたしだけだという事実。
わたしの願いや希望、喜びや悲しみ、怒りや嫉妬、不安や恐怖なんてものも、わたしの脳内で勝手にあれこれしているだけの一人プレイだという、当たり前の事実を嫌というほど実感するのです。残念ながらわたし以外はわたしのペースでは動いていないのです。
そして同時に実感するのが、そんなことお構いなしに、わたしは今ここに自然物の一つとして存在している、という事実もまた間違いなく事実だということ。
木々や鳥や、風や虫や、雲や太陽がここに在るのと同じく、わたしも在るという事実。
なぜかは分からないまま、それでも、在るというこの事実。
それが現実で、それが全てを物語っていて、それが何よりの証明じゃないかと実感するのです。
それはなにも大自然の中でだけじゃなく、鉄筋コンクリートの密林にあっても、ベッドの上で身動きが取れなくても、たとえいつか土に還るとしても。
目で見るだけじゃなく、その場に身を委ねて坐ってみる。
面白いです。
両足院徒弟
品部東晟