10月の禅語御朱印の直書き会
空に輝くたった一つの月が、地上のあらゆる場所の水面に無数に映っている(浮かんでいる)という情景を表現した禅語です。
天の月が地上のあらゆる水面に反射して映るように、あらゆるものの中には他のものの働きが影響していて、他のものと互いに関係し影響し合うからこそ存在している。つまり、何一つとして単独では存在し得ない。つきつめると、すべては一体であるということを表現している禅語だと考えています。
「すべては一体である」といっても、実感が湧きにくいかもしれません。例えば今、自分の目の前に一杯のお茶が置いてあると想像してみてください。そして、この目の前のお茶を今から飲むとしましょう。
目の前に置かれたお茶は、私ではありません。自分ではない別のものとしてお茶を認識するでしょう。ですが、このお茶を口に含み、飲み込んでしまったらどうでしょうか。私の中に取り込まれて吸収され、自分の体の一部になっていきます。この時、身体に吸収されたお茶は自分でしょうか、お茶のままでしょうか。そして、しばらくしたら体から排出することにもなるでしょう。
では、この目の前にあるお茶は、いつから自分になるのでしょうか。そしてどのタイミングで自分でなくなるのでしょうか。自分になるのは、口に含んだ瞬間でしょうか?胃で吸収された瞬間でしょうか?自分でなくなるのは、体から外に出た瞬間でしょうか?膀胱に溜まっているときでしょうか?
もし、お茶が目の前に置かれている状態で永遠に時が止まるのなら、そのお茶と自分は別のものなのかもしれません。しかし、時は止まりません。ですから、この目の前にあるお茶は「これから自分になるもの」であり、「そのうち自分でなくなるもの」でもあると言えそうです。
ところで、この目の前の一杯のお茶は、お茶になる前はどんな状態だったのでしょうか。
例えば井戸水とお茶の葉だったとしましょう。この井戸水はどこから来たのでしょうか。山に降った雨が地面に染みて、地下を流れていた水かもしれません。では、山に降る前は…?雲でしょうか。雲になる前は…?海や地面やあらゆるものから蒸発した水分だったのでしょうか?
一方、お茶の葉はどこから来たのでしょうか。お茶の葉として形になるまでには、太陽、水、土、微生物…、水と同じようにあらゆるものが関係してきた結果、今お茶の葉という形になっているのでしょう。
そうやって関係を辿っていくと、この目の前のお茶一杯は、世界中のあらゆるものと関係してきた結果この一杯になっているはずです。この関係は、人間が現代の科学で辿ることができる範囲の遠く外まで無限に繋がっていることでしょう。それこそ、検証不可能な宇宙の果てまで。そしてこの全宇宙の関係全てを凝縮したような一杯のお茶を、私は飲むわけです。私もつながりの一部です。この、あらゆるものが影響し合っている現実、それが冒頭の「全てが一つである」ということを理解するのに役立つのではと思っています。
さて私は、体長1~2メートルぐらいの、群れで生きる哺乳類で、100年以内に寿命を終えるであろう生き物です。残念ながら私はいつも、そういうサイズ感の生き物としての視点でしか、物事を見て、聞いて、感じて、理解しようとしていません。ただ、ありがたいことに心は無限の想像をすることができます。「すべては一体である」ことを腹落ちして理解するために、まずは想像の中で、いろいろな視点から物事を見る練習をしています。樹齢2000年の大木の視点、寿命のない細菌の視点などなど。
この練習、面白いのでお勧めです。坐禅のお供にいかがでしょうか。
品部東晟