9月の禅語御朱印の直書き会
風吹不動天辺月 (かぜふけどもどうぜず てんぺんのつき)です。
天の月はどんな大風にも微動だにしない。
同じように、煩悩(ぼんのう≒不安や恐れ)や妄想(もうぞう≒偏見や執着)が吹き荒れても、本来の心はそのままある、という禅語と解しています。
さて、私は坐禅をしながら、しばしば「常識」や「偏見」という言葉について考えます。「常識」の言葉の意味を調べると「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別」などとでてきます。
そこで思うのは、この常識という言葉の意味の曖昧さと、この言葉が持つ人の思考を縛る力の強さです。そもそも健全な一般人とはどんな人を指すのでしょうか。普通の知識や思慮分別の、普通とはどの程度なのでしょうか。多数決で多い方でしょうか。
ある人が生きてきた環境や、触れてきた情報によってつくられる知識や思慮は、十人十色です。全く同じ環境を生きている人は自分以外誰もいないわけですから。例えば外国に行けば分かりやすく文化が違う、常識が違うと思えるのでしょうが、日常的で近しい人であるほど忘れてしまいそうになることです。
自分の思う常識が他人の常識と重なることも当然ありますが、結局のところ常識とは「勝手ながら自分では普通だと、今のところ思っている」という範疇を出ない言葉だと思うのです。そして、その自分だけの常識を「健全」とか「普通」とか「一般的」などと盲信した状態で物事を見るのが「偏見」だと考えています。
私は、私のだけの常識を、あたかもみんなの共通認識だと思いがちです。常識を、まるで常識かのように振りかざして盲信しているわけです。そして偏見をもって世の中を見ています。だから、なるべく多くの常識に触れることで、自分の常識を疑い続けたいと思っています。自分以外の人の常識はもちろんのこと、松の常識、アリの常識、メダカの常識、サルの常識、星の常識、ウイルスの常識、観察し学び想像が及ぶどこまでも。
もし、何かがおかしいと感じるなら、自分の「常識」を疑ってみてはどうでしょう。凝り固まった常識や偏見といえども、移り変わり過ぎ去る風のようなもの。風ごときではブレない月が、相変わらずそこにあるのでしょう。
両足院徒弟 品部東晟